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2010年07月15日

仕様書:四つの真理

次回の瞑想会は
8月8日
です。

電化製品や調理器具
子どものオモチャ、お菓子の素材を
確認すれば、そのモノの原料
、使用方法、してはいけないこと、
取り扱い注意、などが書かれている。

そうしないと、満足に携帯やパソコンを
利用できない。卵を食べてアレルギーが出る。
道具が壊れる。といった結果になる。

すぐれた道具や性能の良い道具、
壊れやすい道具になればなるほど、取り扱いは
注意、集中しなければならない。

身体と心については
どうか?よく説明書、仕様書を
読んで、理解して、行動している
だろうか?

理解して食べているだろうか?
理解して怒っているだろうか?
理解して苦しんでいるだろうか?

人間の世の中という
仕様書には以下のよう
にあります。

1、この人間世界は苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。怨みあるものと会わなければならないことも、愛するものと別れなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。まことに、執着を離れない人生はすべて苦しみである。これを苦しみの真理(苦諦)という。

この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。その煩悩をつきとめていけば、生まれつき備わっている激しい欲望に根ざしていることが分かる。このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死をさえ願うようにもなる。これを苦しみの原因(集諦)という。

この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦)という。
この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道)を修めなければならない。八つの正しい道というのは、正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一である。

これらの八つは欲望を滅ぼすための正しい道の真理(道諦)といわれる。これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとする者は誰でも煩悩を断ち切らなければならないからである。煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ到達し得る。さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。

2、道に志す人も、この四つの聖い真理を知らなければならない。これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむ時がない。この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。
だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。いつの世のどのような聖者も、正しい聖者であるならば、みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、四つの聖い真理を教える人である。

この四つの聖い真理が明らかになった時、人は初めて、欲から遠ざかり、世間と争わず、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、欺かず、そしらず、へつらわず、ねたまず、瞋らず、人生の無常を忘れず、道にはずれることがない。

3、道を行うものは、例えば、燈火をかかげて、暗黒の部屋に入るようなものである。闇はたちまち去り、明るさに満たされる。
道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧の燈火を得て、無知の闇は滅びる。
仏は単にこの四つの心理を示すことによって人々を導くのである。教えを正しく身に受けるものは、この四つの聖い真理によって、はかないこの世において、まことのさとりを開き、この世の人々の守りとなり、頼りとなる。それは、この四つの聖い真理が明らかになれば、あらゆる煩悩のもとである無明が滅びるからである。

仏の弟子たちはこの四つの聖い真理によって、あらゆる教えに達し、すべての道理を知る智慧と功徳とを備え、どんな人々に向っても、自在に教えを説くことが出来る。(パーリ、律蔵大品1-6・パーリ、相応部56-11-12、転法輪経)仏教聖典より




「苦」は、生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五取蘊苦(取で五蘊に執着すること)である。換言すれば、生命と関係する一切のものは、自然界の法則のもとにあり、因縁に従って変化するので、圧力、圧迫、軋轢、支障が潜んでおり、それ自身に欠陥があって不完全であり、いつか、何らかの形で、取でもって執着する者に対し、苦を生じさせようとしている。苦に対する人の義務は、それを知り、理解し、真実を覚知することであり、遍知と言う。

「苦集」は、短く「集」(苦を生じる原因)と言う。渇愛、すなわち、新しい有を生じさせたいという欲求である。それにわれを忘れて執着することが加わり、常に新しい喜びを求める。この欲求には欲愛、有愛、無有愛の三種がある。換言すれば、欲しい、そのように生きたい、このように生きたい、生きたくないというわれのある行相によって、依所として自我に執着する欲求が、常に焦燥感、懸念を生み、何らかのものへ固執して生命を圧迫し、すっきりした自由がない。集に対する義務は、すべてを棄て、なくすこと。「断」という。

「苦滅」は、短く「滅」(苦の滅尽)と言う。解き放たれて、渇愛が残りなく消え、棄てることができること。振り払い、脱することができて、まつわり付かないこと。換言すれば、渇愛に従属しないで、焦燥感や懸念などで圧迫されない、苦がなく、楽のある涅槃の状態であり、清浄な自由で、静寂で、透明で、明るく、楽しい慧のある生き方である。滅尽に対する人の義務は、明らかにし(証)、完成させ、現実のものにする、あるいは成就することで、「作証」と言う。

「苦滅道」は、(苦の滅尽へ導く道)短く「道」と言う。八支の最勝の道である。すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。道に対する人の義務は、精進、修練、実践、あるいは修習と言う。


自分の仕様書、説明書を
読んで、理解して、行動していきましょう!  
タグ :仏教聖典


Posted by 沖縄ダンマサークル at 15:30Comments(2)