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2010年03月16日

タイ:スーアン・モッカでの瞑想体験

南タイのスラタニーという町にある「スーアン・モッカ」という有名な
瞑想寺です。近代タイの精神的支柱であった「ブッダダーサ・ビク」によって
開かれた修行寺で、タイでは大きな影響力のあるところです。
  
近くにインターナショナル・メディテーション・センターが併設されていて、
毎月初めの10日間、外国人向けに瞑想コースが運営されています。
http://www.suanmokkh.org/
   
インターナショナル・メディテーション・センターも伝統的な上座部仏教の
形式に従っていますが、外国人向けなので、やや緩やかなルールで
運営されています。タイの仏教文化の本質に触れるには、理想的な場所の
ひとつです。

2009年11月にタイの「スーアン・モッカ」にて
10日間の瞑想コースに参加してきました。

参加者は約80名。その内、アジア人は10名ほど。
あとは、イギリス、イタリア、アルゼンチン
アメリカ、カナダ、チェコ
と世界各国からの参加者でした。

タイ:スーアン・モッカでの瞑想体験

コースが始まる前は
西洋の人々が10日の間
じっと、坐って瞑想をする
ということが出来るのであろうか?
と疑問がありましたが、始まると
じっと坐り集中する姿をみることができました。

身体が固い人は、イスをつかったり
坐れなくなったら、立って瞑想をする
真剣な姿を見ることができました。

タイ:スーアン・モッカでの瞑想体験

インターナショナル・メディテーション・センター
の環境はすばらしく、自然というダンマのもとで
自分というダンマを瞑想していける最適な場所でした。

ブッダの像は安置されていませんでした。
瞑想前に比丘や指導者たちは、自然というダンマの
もとで、自分がここに坐り、手を合わせ礼拝する
姿を見ました。

「ありのまま」

をみるという実践が徹底されています。

実践を行うための環境づくりが
八戒でした。

 生き物をころさないという戒めを私は受けて守ります。
 
 与えられていないものを取らないという戒めを私は受けて守ります。

 淫らな行為をしないという戒めを私は受けて守ります。

 いつわりをかたらないという戒めを私は受けて守ります。

 放逸の原因となり人を酔わせる酒・麻薬類を使用しない
 という戒めを私は受けて守ります。

という五戒に加え

 私は時間外の食事することから離れる戒条を保ちます。

 私は修行の妨げになる踊り、歌、音楽を、見たり、聴いたり、
 装飾の原因である花飾りをつけたり、香(化粧用クリーム)
 を塗ったり、香(オシロイ)をつけたり、アクセサリーを
 つけたり、着飾ったりすることから離れる戒条を保ちます。

 私は高い寝床や立派な寝床に寝ることから離れる戒条を保ちます。

というのが加えられた戒律です。

これら八戒が寺院の中で
存在していました。鳥のさえずりが
聞こえたり、水が流れたりするように
形として、環境としてありました。

私たちが日々、修行として
何をするべきか、何が出来るのかが
わかりました。

絵や言葉という二次元の世界では
三次元の世界は表現できます。
二次元の世界で四次元を表現できません。
四次元を表現するには、三次元
環境が必要なのです。

とこの瞑想セミナーに
参加する前のヨーガのセミナーにて
相方先生より聞いたことでした。

見るという行為にしても
眼そのものは、光を無数の・としてとらえ
脳に送られ、「かたむき」「緑」「色」
「明るさ」「奥行き」「動き」「質感」
などの特徴に分けられて、専門的に処理され
脳「まとめあげる」という行為をして

見る

ということなりたちます。
見る、聞く、かぐ、味わう、触れるという五感と
心という思いは、脳の働きによります。

脳の働きによっては
四次元を表現することができず、
ブッダをみることができず、
呼吸を観ることができません。

脳という環境
五感と心という環境
と整えていくことで「現在の私」という三次元が
整備されていくのです。

タイ:スーアン・モッカでの瞑想体験

コンクリートの上に
ムシロだけ
木の枕。

これでは気持ち良く眠れません。
「気持ち良く」というのは「触れる」という
ことを目的としていて「現在の私」が乱れると
いうことです。

ムシロの上で寝ていると痛くて、何度も
眼が覚めました。瞑想コースの間はこのムシロの
おかげで「覚めた」状態を維持することが出来たのです。

戒律を守るとは「現在の私」の環境整備であり
脳の抑圧でないこと。

慈悲の瞑想も「現在の私」の環境整備であり
自分の見たくない感情に蓋をするのではないこと。

サティ(気づく)。ありのまま。
ということは、「勝利の経」にある

歩く立つ座る横たわる伸ばす縮む。
体の動きはこれだけです。


「現在の私」という環境が
「その前の私」という環境よりも
良くしていく。

生きるという連続において
環境づくり。

沖縄ダンマサークルも瞑想者の
「現在の私」という環境が整っていけるような
環境づくりをしていくのが願いです。

 おきなわヨーガ
 木下克俊



 「アーナンダよ。善友、善朋、善き仲間を持つことは
 すべての梵行に等しい」

 「比丘たちよ。太陽の昇るとき、その前兆に東に曙光があるように、
  善友があることは比丘に八正道の生じる前兆である」
   (第16巻上相応部大篇189ページなど)

*「善友」とは、普通の友人のような狭い意味ではなく、教祖、師、先生、友人など誰であれ、善で正しい実践行為の道を助言してくれ、三学の修習を助けてくれる者を意味する。(仏法 テーラワーダ仏教の叡智)




法の実践とは、法を生き方や仕事のやり方に用いる、すなわち法を用いて実際の生き方に役立てることです。法を実践するときは、実際の生活に法を用いる、あるいは生きることに役立てることです。もし、このように使わないなら、実践とは言えません。この「実践」という言葉自体に、パーリ語から「歩む」という意味の言葉を加えれば、「道」(patipada)というもう一つの言葉になります。「道」とは何でしょうか?「中道」と訳している「マチマー・パティパダー」という言葉の中で、「マチマー」は真ん中、「パティパダー」は道です。「パティパダー」という言葉は、「歩むところ」という意味です。
(略)
この「道(Patipada)」、あるいは「実践(Patipatti)」が、歩むこと、あるいは歩む道という意味であるとき、法の実践とは、善い生き方をするために、法を用いて生きる道を歩むこと、あるいは正しい生き方をすることを助ける、もしくは生きる歩みを助けることです。
もし法を用いなければ、繁栄する安楽の道の代わりに、生きることの歩みを誤るかもしれないことを意味します。だから、私たちは法に助けてもらい、法を実践する、つまり、法を用いて生きることの歩みを正しく、役に立つようにするのです。やさしく言えば、法を用いて私たちの生活に役立たせることです。したがって、法の実践は広範囲で、社会を避けて離れたり、寺に籠ったり、森に籠ったりして、坐って定の実践のようなことをすることだけではありません。それは一部のことで、真剣に法を心の修習の深い段階に用いようと努力することです。
(略)
仕事をする、あるいは自分の義務を正しく善く行い、役に立たせよう、善い目的を成就させようと決心するとき、法を実践していると言えます。したがって、自分に学習する義務があり、正しく学習し、努力して学ぶ決心をし、その果を得ることは、法を実践したことになります。(略)路上で自動車を運転するとき、交通法規を守って、放免でなくきちんと、乱暴でなく運転することです。あるいはさらに深く入って、運転するときは緊張せず、心を清らかに気持ちよくすることすら、様々なレベルの法の実践です。(略)したがって、真の法の実践は常にあります。というのも誰しもが善く、正しく生きる義務があるからです。(仏法の思考と実践―テーラワーダ仏教と社会より引用P10)


タグ :参加者の声


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